人物詳細

明治

氏     名 (享年)
(フリガナ)
性別
 

富松正安(38歳)

(トマツ/マサヤス)

 

出典 大阪日報 明治19年10月12日 
大阪日報 明治19年10月09日 
大阪日報 明治19年07月11日 
判決日
裁判所
明治(年月日不明) 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子 「処刑前富松繰、板倉中、牧野泰造の三氏は、許可を得て富松氏に面会せられしに、同氏は敢て憂うる色なく、莞爾?として板倉氏に対(むか)ひ予の当地に繋獄せられしより以来、悔嶽○(かいがくただ)ならざるの厚意を蒙(こうむ)りたるも死刑既に迫って生前之を報(ほう)ずる能わざるを恨む兄○幸に之を恕(ぢょ)せよ又実弟並びに兄○の続々面接を請いるるの挙に於て予は既に執行の瞬間に迫れるを知れども是れ豫(かね)て○○る所にして敢て驚愕せざるのみならず却って今日迄○引○○○○○○○り○今日に及んで事を費す○○○なれど○○○の予が○○の裁判上に○○○すして期せる所に反する事実の世に公にせられたるは○○遺憾とする所なれば此○は兄○に於て能く○○せられんとぞ望む又予は生前今一たび大井憲太郎氏に面会せんと欲したれども是亦果す能はざりし兄○○に園氏に○○るとあらば之を伝えよ死に臨んで語を寄す世間同志の士等に天帝の助けに依て勉(つと)めて○○の為に努力せよ○○○安は断じて予の○らざる所なり監獄中の近作詩歌数篇あり下附と請ふて中夜(ちゅうや)の吟唱を望む亦以て余が○望(きぼう?)の万一を知るに足らん云々と(述?)べしに付板倉氏も亦一々之に答へて其意を慰められたり次で氏は牧野氏に乞ふて洗礼を受け畢て従容死に就かれたり其際時世の詩歌二首を記して獄吏に渡されたれども未だ下附に至らざれば追て掲載す可し」 午前九時三十分執行
失敗の状態
その他 加波山事件の首謀者 「当日早朝より同地の有志者板倉中新荘克巳、杉山安蔵、奥田七郎、片田龍蔵、泉常太郎、板倉文吉及び耶蘇○○師牧野○等の諸氏を始めとして十数名死体引取の為め同監獄署へ出頭し遺体を請ふて一旦之を亥の鼻山なる教会堂に送り茲(ここ)にて数多の信徒等相会し暫時祈祷ありて後午後より其実弟富松繰氏及び牧野板倉等の諸氏にて其郷里なる下館へ護送したり」
備考 明治19年6月生 前号の東京通信中、毎日新聞に去月三十日千葉県監獄署内において死刑を執行されたとあるのは、同新聞の誤報 ○字は判読不能
出典 官報 明治19年10月05日 980-44
判決日
裁判所
明治19年7月(日付不明) 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年9月30日 刑場不明
様子
失敗の状態
その他
備考
出典 東雲 明治21年10月05日 
判決日
裁判所
明治(年月日不明) 不明
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件
備考 原本には明治19年10月2日が「故富松正安氏の三年忌辰に相当する」とある(刑場の記載はなし)。東雲新聞刊行期間内の執行ではないが、一応記載しておく。ただし時事新報明治19年10月8日付によると執行日は同5日で刑場は千葉 原本氏名の読み方は明治19年10月6日灯新聞にて「トマツ/マサヤス」とあり、それに準じた 年齢は以下サイトを参考(http://kotobank.jp/word/富松正安)
出典 郵便報知 明治19年08月13日 
郵便報知 明治19年07月06日 
判決日
裁判所
明治19年8月12日 大審院
明治19年7月3日 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件
備考 読み方、執行日、刑場は灯から引用
出典 灯 明治19年10月07日 
灯 明治19年10月06日 
判決日
裁判所
記載なし
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子 辞世の詠吟あるが、内容は「未だ下附に至らざ」る
失敗の状態
その他 死体引取り等の概況あり
備考
出典 毎日 明治19年10月06日 
判決日
裁判所
明治10~19年頃 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件 「死刑執行 先に死刑の宣告を受けたる加波山暴徒保多駒吉は甲府重罪裁判所に於て、富松正安は千葉重罪裁判所に於て、杉浦吉副は栃木重罪裁判所に於て何れも去月三十日死刑執行の命令ありたり」(東京横浜毎日/M19/10/06)
備考 死刑執行の記事(東京横浜毎日/M19/10/06)には、明確な執行日は記載されておらず、執行日、刑場は灯を引用にした。刑場は執行地を示す
出典 福岡日日 明治19年08月29日 
判決日
裁判所
明治10~19年頃 不明
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件 「横山信六、三浦文治、小針重雄、琴田岩松、富松正安、保田駒吉、六名の死刑執行は其筋より目下司法大臣へ伺中なりと云う」(明治19年8月29日)
備考 執行と刑場は記載がないが『日本の死刑』(村野薫 柘植書房 1990年)の記載を引用した
出典 時事 明治19年07月07日 
時事 明治19年10月08日 
時事 明治19年08月12日 
判決日
裁判所
明治19年8月11日 大審院
明治19年7月3日 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件 「東京重罪裁判所より上告の横山信六外五名、甲府同裁判所より上告の保田駒吉、栃木同裁判所より上告の大橋源三郎、千葉同裁判所より上告の富松正安等に対し順次裁判を宣告し孰れも…その上告を棄却する旨申渡されたり」(明治19年8月12日記事) 「同日死刑執行の前氏の実弟富松○氏、氏の弁護人たりし代言人板倉仲氏及び耶蘇宣教師牧野泰造の諸氏は監吏の許を得て正安氏に面会せしに正安氏は板倉氏に向い深く保護の労を謝し今日の事は預め期する処なれば憂も恨む所なし唯生前一度大井憲太郎に遇ふて一言を述ぶる能はざるは遺憾の至なれば折もあらば此意を大井氏に通せられよとの旨を述べ其他尚二三の言置なりければ板倉氏は一々之を承諾せり依て富松氏は牧野氏に請て洗礼を受け詩歌二首を書して看守に渡し終りて刑場に上り従容として死に就きたり行年三十九なり死体は千葉の有志者数十名が引取りて同地に埋葬せんとてかねて用意を整へたりしに前日夜半過る頃富松正安氏の実弟富松○氏郷里なる下総より来着し国元の有志者が是非とも死体を郷里へ引取りて埋葬せんことを望むに付郷里へ引取り度(たく)とのことなれば其意に任せて遂に下館町へ送ることとなし有志者一同先づ刑場より死体を護して同地亥ノ鼻山なる耶蘇教会堂に赴きけるに途中有志者の迎ふる者多く同教会堂に於て暫時祈誓の事あり午後に至り富松○、牧野泰造、板倉文吉等の諸氏は右の死体を護して下館へ向け出発したりと云う」(明治19年10月8日記事)
備考 年齢は、明治19年6月時点で38年10ヶ月とあることから、執行時年齢を39年とした ○字は判読不能 
出典 日本死刑史 明治58年08月20日 660~661
判決日
裁判所
明治19年7月3日 千葉重
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治19年10月5日 千葉
様子
失敗の状態
その他 加波山事件
備考 裁判所は千葉重罪裁判所とあり。刑場は千葉とした。事件発生日は『日本の死刑』(村野薫 柘植書房 1990年)211頁より引用
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