人物詳細
明治
氏 名 (享年) |
(フリガナ) |
性別 |
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管野スガ(30歳) |
(カンノ/スガ) |
女 |
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出典 |
読売 明治44年01月28日 読売 明治44年01月26日 読売 明治44年01月25日 |
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判決日 |
裁判所 |
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明治44年1月18日 | 大審院 | |
執行日 (命令日) |
刑 場 |
立会者名 |
明治44年1月25日 | 東京 | |
様子 | ||
失敗の状態 | ||
その他 | 大逆事件 「二十四日未明より愈々左記十二名に対し死刑の執行ありたり・・・幸徳に次いで奥宮健之、内山愚童、古河力作、新美卯一郎、管野スガの順序にて執行されて正午に至り、午後より大石以下の執行あり」(明治44年1月25日記事) 「昨日午前、松室検事総長が各司法記者を招いて無政府共産主義者幸徳等十二名に対する死刑執行は二十四日に十一名、二十五日に一名執行、而して此の一名は管野スガなりと発表した」(明治44年1月26日記事) 死体引渡は、「在世中懇親の間なりし大杉夫妻が引取り代々木新町・・正泰寺に葬るべしという」(同26日記事) 「管野の死体は府下千駄ヶ谷町・・増田謹三郎が引取り二十六、七の両夜自宅にて通夜をなし・・本日午前代々幡村正春寺に埋葬すべく」(明治44年1月28日記事) | |
備考 | 裁判所については、下記URLより「大審院が審理する一審制」とあったのを参考にした。http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件 執行日は、明治44年1月25日記事にて1月24日とあるが、1月26日記事にて管野スガのみ1月25日執行と訂正されている。立会人は、1月25日執行の場合明記されていないため、空欄とする |
出典 |
官報 明治44年01月26日 8277-493 |
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判決日 |
裁判所 |
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明治44年1月18日 | 大審院 | |
執行日 (命令日) |
刑 場 |
立会者名 |
明治44年1月25日 | 刑場不明 | |
様子 | ||
失敗の状態 | ||
その他 | ||
備考 | 大逆事件で大審院のみの一審 姓は「菅野」と読めるが読売、朝日にて「管野」とも記載あり。以下サイトに「父義秀は京都所司代に仕えた武士の時代は菅野姓、明治になって管野姓に戸籍を変更している」とあり、管野と表記した(http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa050528.html) |
出典 |
朝日 明治44年01月26日 朝日 明治44年01月25日 |
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判決日 |
裁判所 |
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明治44年1月18日 | 大審院 | |
執行日 (命令日) |
刑 場 |
立会者名 |
明治44年1月25日 | 東京 | 大審院板倉検事、控訴院川添検事、大審院書記、控訴院書記、木無瀬典獄、逸見第二課長、大草監獄医長、田中教誨師、沼波教誨師等六名* |
様子 | 「この日は例の如く髪を銀杏返しに結び幸徳と同じ丸に橘の紋付の薄紫の羽織を着し死刑の申渡しを受くるも毫も悪びれたる様なかりき」 | |
失敗の状態 | ||
その他 | 大逆事件 「午前中には幸徳、管野以下新実卯一郎、内山愚童、奥宮健之、古河力作、森近運平、松尾卯一太等八人の執行を終り、午後は宮下太吉、新村忠雄、大石誠之助、成石平四朗の執行をなし、午後三時半茲に全く逆徒の当類を誅滅し終れり」 管野が21日堺枯川氏夫人為子に宛てた手紙の掲載あり | |
備考 | 氏名は「管野須賀子(カンノ/スガコ)」ともあり。官報の記載は「菅野スガ」だが、以下URL(http://ja.wikipedia.org/管野スガ)に「江戸時代の頃は『菅野』姓であったが、明治になってからスガの父が『管野』に姓を変更した」とあり、それを参考にした 裁判所と判決日については、以下URLを参照した http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/幸徳事件 立会人は最後に「六名」とあるが数が一致していない。明治44年1月25日の記事では「大審院検事一名、補助として控訴院検事一名大審院書記控訴院書記典獄看守長の六名」とある。死刑の執行日はM44/01/24とあるが、官報の記載によりM44/01/25とした |