人物詳細

明治

氏     名 (享年)
(フリガナ)
性別
 

幸徳伝次郎(年齢不明)

(コウトク/デンジロウ)

 

出典 朝日 明治44年01月26日 
朝日 明治44年01月25日 
判決日
裁判所
明治44年1月18日 大審院
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治44年1月24日 東京 大審院板倉検事、控訴院川添検事、大審院書記、控訴院書記、木無瀬典獄、逸見第二課長、大草監獄医長、田中教誨師、沼波教誨師等六名*
様子 「午前五時先ず幸徳伝次郎を呼出し死刑執行を為すべき旨を告げたるに同人は粛然として命を領し毫も悪びれたる体なく導かるるままに絞首台上に昇りたり合図と共に幸徳の体はパタリと空に懸り縛せられたるまま僅かに手足を動かせしも暫時にして静止し・・」(明治44年1月25日記事) 「現場に着するや直に木綿の袋を以て幸徳の面部を蔽い看守小菅重次郎之を導きて台上に座せしむ、台下には看守初太郎待受け合図あるやツト体下の板を引けば幸徳の体は同時に下に落ちて木材に皮を嵌めたる挃梏にて首を締め数分時にして絶命せり、大草医長は進みて検視したるに脈拍全く絶えたるを確かめたり」(明治44年1月26日記事)
失敗の状態
その他 大逆事件 「午前六時例の如く一同に朝食を喫せしめたる後、七時を過ぐる十数分にして木無瀬典獄を始め板倉、川添の二検事、大草監獄医長、田中、沼波両教誨師並に課所長等は新設したる特別教誨所に着席して先ず逆魁幸徳を呼出しぬ、・・一同の視線は期せずして幸徳の一身に集まりしが、幸徳も此森厳なる光景に接して流石に夫れと覚知しけむ、思わずキット顔は蒼ざめぬ、典獄厳かに申渡すよう『司法大臣の命令に依り本日これより死刑を執行する』と、幸徳は僅に肯き其儘看守に警衛せられて死刑執行場に導かれぬ、此日万一を慮かりて場内の警衛は最も厳重を極めるり(ママ)」(明治44年1月26日記事) 「午前中には幸徳、管野以下新実卯一郎、内山愚童、奥宮健之、古河力作、森近運平、松尾卯一太等八人の執行を終り、午後は宮下太吉、新村忠雄、大石誠之助、成石平四朗の執行をなし、午後三時半茲に全く逆徒の当類を誅滅し終れり」 幸徳が19日に堺枯川氏に宛てた書簡と21日に堺氏と面会したときの記載あり。幸徳の死体解剖は、25日朝義兄幸徳駒太郎より急電あり中止となる。25日午後に堺枯川、石川三四郎、大杉榮が幸徳の死体を引取り火葬の手続きをなす
備考 氏名は幸徳秋水ともあり。裁判所と判決日については、以下URLを参照した http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/幸徳事件 立会人は最後に「六名」とあるが数が一致していない。明治44年1月25日の記事では「大審院検事一名、補助として控訴院検事一名大審院書記控訴院書記典獄看守長の六名」とある
出典 官報 明治44年01月26日 8277-493
判決日
裁判所
明治44年1月18日 大審院
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治44年1月24日 刑場不明
様子
失敗の状態
その他
備考 大逆事件で大審院のみの一審
出典 読売 明治44年01月26日 
読売 明治44年01月25日 
判決日
裁判所
明治44年1月18日 大審院
執行日
(命令日)
刑 場
立会者名
明治44年1月24日 東京 大審院板倉松太郎検事、大審院書記、控訴院検事、控訴院書記、木無瀬典獄、逸見第二課長、沼浪教誨師、その他課所長、(高橋、小菅両看守の手にて刑の執行あり)
様子 「幸徳は粛然として今度新たに設備されたる絞首台上に立ち・・」
失敗の状態
その他 大逆事件 「堺利彦氏が最後に幸徳に面会したる時彼は只『他の者に気の毒だ』とて多くを語らず、屍体は堺氏より、友人にして医師たる加藤時次郎氏に嘱し大学病院にて解剖に附してはと語り幸徳も同意したる由なるが尚彼が判決の翌日堺氏に送りたる手紙には『これから数日間か数週間か知らぬが読めるだけ読み書けるだけ書いて元素に復帰することにしよう』などの文字あり生前の著述「基督論」が出版になれば関係弁護士及び友人に贈り且つ東京監獄の事務所と教務所に寄贈せられたき由を書きありしと」 死体引渡は、親友の堺利彦氏 死体解剖については、国元より反対の返電に接して中止となる
備考 裁判所については、下記URLより「大審院が審理する一審制」とあったのを参考にした。http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件 立会人は、松室検事総長談より「検事一名及び書記を大審院並びに控訴院より一名宛立会わせたる・・」とある。
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